4姉弟のハハ日記

1997年生1娘、2000年生2娘、2002年生3娘、2005年生4太の過去日記

おおきな木:シエル・シルヴァスタイン著

図書館で見つけて、懐かしくて借りてきました。
昔、1娘に読んであげたことがあります。
今度は2娘に読み聞かせしました。
 
読み聞かせた後、2娘は木さん、ちょっとかわいそうだねと言いました。
それに対して私は
「2娘は、そう思うんだね。
 でも、『木はうれしかった』って書いてあるでしょ。
 ハハは、男の子にいろいろしてあげられて、うれしかったと思うよ」
と応えました。
本当は、子どもの感じたことをそのまま受け止めるほうがいいのだろうけど、
そう、伝えたかったのです。
 
日本語タイトルは「おおきな木」ですが、
英語では「THE GIVING TREE(与える木)」です。
 
りんごの木は、男の子と木登りや枝ぶら下がりなどして、仲良く遊びます。
りんごをあげたりもします。
木は、とても幸せでした。
でも男の子は成長すると木と遊ばなくなり、
久しぶりに来たときにはお金を要求します。
木はりんごの実を与え、お金にするように言います。
男の 子は、またしばらく来なくなります。
大人になり家が欲しくなると、今度は枝を、
人生に挫折すると旅立つための船を作るため幹を、木は男に与えます。
ただひたすら、与える木。
切り株だけになってしまった木。
それでもまた、やってきた男に、木は心躍る喜びを感じます。
男は、老いてただ休みたいと言い、
木はせいいっぱいそれに応え、切り株に腰掛けるように勧めます。
男は腰掛け「木はそれでうれしかった」という文章で終わります。
 
以前、新聞記事のコラムに、
この本の感想の、国別の結果と結果に関する考察がコラムにありました。
各国語に翻訳されているこの絵本。
読んだ後、子どもに木の気持ちを聞いてみると、大きく2つに分かれます。
 1.木は幸せだと思う(結果はよかったと思う)
 2.木は本当は悲しいと思う(木がかわいそうだと思う)
欧米や中国、韓国では1の方が多く、日本だけが2の方が多かったのです。
考察では(詳しくは覚えてませんが)
日本では、与えるだけの献身を、
 不幸だと思う傾向があるのかもしれない
と書いてあったと思います。
 
実は絵本の文章の途中に、ひっかかる言葉があります。
男が幹を持ち去り、切り株だけになったとき
きはそれでうれしかった・・・だけどそれはほんとかな。
と書いてあります。
日本語訳の文章です。
原文では、どうなっているのかな。
知っている方いらっしゃったら、教えてくださいm(__)m
 
私は、木はうれしかったと思います。
「木はそれでうれしかった」と書いてありますし。
木がしてあげたことに対して、
成長した男は、特に喜んでお礼を言ったりもしません。
でも木を拒否もせず、与えたものを受け入れてくれました。
 
男が去って疎遠のときは、木は寂しかったかもしれないけど、
それは与えただけで見返りがないことが、悲しいのではないと思います。
切り株だけになってしまって、もうしてあげられることがないかも、
と感じた寂しさではないでしょうか。
 
男のために何かしてあげられる、
ということが、木の喜びで望みで生きがい
なのですよね。
 
私は、情緒的にどうも欠陥があるらしく、
周囲の雰囲気を読んだり、人の心を推し量るということが苦手です。
他人の身になって考える、というのもなかなかできません。
ですので、人の言動はそのまま受け取ります。
自分の考えの範囲でしか、相手の心を類推することができません。
なんというか、とてもマイペース(自分勝手?単純?)。
周囲が遠慮して控えてる言葉を、気づかずに発してしまい、
人を面食らわせてしまうことが あります。
御世辞は信じてうれしくなっちゃうし、
儀礼的にかけていただいた言葉かもしれなくても、
好意は遠慮せず受けます。
京都で「ぶぶづけでもいかがで すか?(真意は『帰れ』だそうですが)」
と言われたら、知らなければいただいちゃうかも(^^ゞ
でもまぁ、なんとか30ん年、社会生活を営んでおります。
ん?
こんなこと書きたかったんじゃなかったんですけど(-_-;)
 
え~と、
誰かのために、自分にできることがあるというのは『喜び』だよね
ということを言いたかったのです。
 
私の場合、家事嫌いで、家族のためにはあまり何もしてませんが(^_^;)、
仕事を通して、やはり人の役に立ちたいと思っています。
人生や就職の目的に「自分探し、自己実現」などといいますが、
人と関わらない世界では、自他の区別は必要ありません。
他者との関わりの中から、自分の存在価値が見えてくるのだと思います。
自分がどんなに満たされてても、周囲が不幸だと虚しかったりします。
反対に、自分に益がなくても、人が喜ぶと自分もうれしかったりしますし、
何かして人に「ありがとう」って言われると、
自分を認めてもらえたみたいでうれしいですよね。
 
そういうのはもしかして、
結局自分の喜びを人に押し付けてるのかもしれなくて、
有難迷惑になることもあるかもしれませんが、
喜んでくれる人がいればそれでいいかなと思います。
 
更に、なんで自分ばかり・・・、
なんて思っていると人にやさしくできないので、
まず自分が幸せだと感じていなくてはね。
やっぱり自分勝手?なのかしら。
う~ん、堂々巡り。
 
つまり、木は幸せだったと思うし、私も幸せです。
そろそろ終わっておこう。
まとまらなくてすみません。
 
 
**2016年**
当時読んだ「おおきな木」は、本田錦一郎氏訳ですね。
「きはそれでうれしかった・・・だけど、それはほんとかな。」
 
この部分、原文は、
And tree was happy…. but not really.
だったです。
 
先ごろ、村上春樹氏訳のものが、出版されました。
同じ部分は、
それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」
 
これは、これで、原文に忠実な訳なのかな。
う~ん、木の幸せを否定されてしまった(^_^;)
旧訳の方が、含みがあって、考えさせられる気がして、好きかも。
でも、いろんな感じ方があって、
それは、受け取り方がそれぞれなので、それでOKだと思います。